大震災時のカメラワークから窺えた非人間性

【OCNブログ人アマがえるブログ20110314記事を転載します(文責・日吉圭)】


筆者は2011年3月11日3時15分にNHKの緊急放送によって東日本大震災の発生を知ったが、ニュースを見ながら幾つか腑に落ちない点を感じそれを暖め続けていた。


まずアナウンサーの話し方が機械的で、心が篭っていないと感じた。


もちろんマグニチュード8を超える大地震であり、大津波警報が発令されている状況下、アナウンサーは悲痛な声で「一刻も早く安全な高台に避難して下さい」と連呼していたので、心どうこうを読み取れる状況ではないと言えばそうである。


しかし、仙台港だっただろうか、大量のコンテナが津波にさらわれている場所の映像で、視界の中心にある工場のような所が火災を起こしたのか大きな噴煙をあげていたが、津波でそのようなことが起きるとは知らない筆者は大いに驚きそこに意識を集中していた。


にもかかわらず、NHKのアナウンサーはそれには一言も触れず流出しているコンテナのことだけを話し続け、カメラも遠方の工場が視界に入らないように手前のコンテナだけを映し始めた時にそれを感じた。


どうもこれはアナウンサーの人間的資質の問題ではなく、何を話してよくまた何を話してはいけないかアナウンサーに厳しい訓練が課されているという問題だと感じた。


それ以降筆者は、カメラが流水の中に何か人間の動く気配が感じられる度に、素早くアングルを逸らして視聴者の視線がそこに集中しないように留意していることに気づき始めた。


読者はそんな馬鹿なと言うかも知れないが、筆者は以後数日間、その点に注意して映像を見続けたので、これはNHKに限らず民放各局全てに徹底されている留意事項であると断言できる。


視聴者からすればカメラは自分の目のようなもので、民主主義体制におけるテレビカメラとは世の真実を隠さず映し出す鏡でなけれなばらない。


それが大災害の真実を人々に報道している時に、何を映してよく何を映してはいけないという作為を加えるべきではないことはもちろんである。


仮に瀕死の人を映してしまったら視聴者の心を無用に傷めてしまうというのだろうか?


平生のニュースなどで死体を映すことが倫理上好ましくないのはもちろんだが、しかし実況中継で大災害のありのままの姿を人々に伝え正しい事実認識を持って貰うことに大きな意味がある時に、事実を作為的に歪曲して伝えるのは非民主主義的行為だと断言される。


筆者はむしろ、このカメラアングルが意味するものは、誰を救出劇のヒーローにして誰を救出される奇跡のシンデレラにするかを、決定することこそマスコミの権限であり、垂れ流しの映像が勝手にストーリーを作り上げることのないように、各局に「お達し」が回っていることが原因なのだと思う。


この公に出来ないがしかし業界人の常識である報道倫理基準という名の「お達し」を隅々まで行き渡らせている主体は、もちろんマスコミに巣食うイルミーたちである。


だが、それを平然と受け入れている業界意識は、マスコミとは民主主義体制下における主権者たる国民に仕える目などではなく、民草を統べ賜えるイルミー様が子羊たちの思考を思うがままに操る道具であると考える次元に堕しているのだろう。


もう戦後60年も経過したというのに、戦時中の報道のような未開的かつ非文明的な次元から我々はまだ脱し得ていなかったのだろうか?


これは倫理性という衣を纏った偽善の悪魔の成しようであって、これに激しくノーを突きつけられるくらいに、我々は賢くなければならない。<1325>

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