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日吉圭の時事寸評
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真に輝かしい未来を引き寄せるためには、まず偽善を語るのをやめて、現代日本社会が抱えている闇の部分を真剣に見つめ直さなければなりません。その助けにならんとします。
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西欧に名族なし

2018/08/19 14:44
【OCNブログ人アマがえるブログ 20100504記事を転載します。(文責・日吉圭)】


「高貴な血筋」という表現がありますが、貴い血筋とは何をもって「貴い」と言うのでしょうか?


先祖代々権力の座に就いていれば、その血筋は「貴い」と見做されるのでしょうか?


それとも、大きな財産を継承していれば、その血筋を「貴い」と言うのでしょうか?


例えば、罪もなきカンボジア人150万人を虐殺した指導者、ポル・ポトの血縁の者は今もカンボジアで要職にあると思われますが、その血筋はそれが故に貴いのでしょうか?


そんなはずはありません。


しかし、もし今日の世界で支配的な権力を有するイルミーが認めた血筋を、そのまま高貴な血筋と見做すのであれば、ポル・ポトの血筋もそう見做されねばなりません。


何故なら、ポル・ポトはフランス留学時にイルミー結社に加入したと言われていますが、イルミーの欲望を間接的に叶えた彼の血筋は、カンボジア民族に対する呪いのこもった手綱として連中から手厚い庇護を受け続けるに相違ないからです。


確かに、その一族から、諸分野で活躍する優秀な人材を輩出し続けるような血筋は、貴い血筋と見做されうるでしょう。


けれども、昨今のように世の中が硬直し、自由競争が否定されて地位の世襲化が進むと、もはやその貴さの根拠は失われていきます。


ことに、17世紀頃から魔のカルトであるイルミー結社に侵食され続けた西欧名族の「貴さの根拠」は、この日本における名族のそれとは、全く内容を異にする可能性を指摘しなければなりません。


今や、西欧における名族とは、「子供を捧げ物にする魔のカルトを拒絶せず、かつ催眠にかかりやすい家系」を意味するだけです。


イルミーは、愛や心の真の価値に目覚めて、魔のカルトの伝統を否定する者が支配層から現れることを恐れているので、カルトに染まり易い体質を重視しており、それはどうも特定の血筋において承継され得るものらしいのです。


そこで、安定した支配層を形成する要請から、イルミーは血筋を重視しているのです。


ところで、催眠にかかりやすいかどうかは、体質の問題にとどまらない可能性があります。


つまり、「魔」なるものは実在し、その人間への憑依のし易さが、被催眠の難易度として評価されているかも知れないと筆者は思うのです。


とは言えども、「魔に憑依されやすい」からといって、その血筋を「高貴」と崇めることは出来ないと思います。


もちろん、「高貴な血筋」とは、「優れたリーダーシップを発揮し、その指導する集団を繁栄へと導く人材を輩出し続ける血筋」をもって称されねばなりません。


であるのに、イルミーの言う「高貴な血筋」とは、マスストランディングする鯨の群れを率いるリーダー鯨のように、「集団を滅亡に導くハメルーンの笛を吹く者」を意味しているのです。


そこで、もし人々がこれから訪れる殺戮の時代を生き延びたいと欲するのであれば、まず言われるがままに西欧名族の血の貴さを受け入れる己の心理を、根底から見つめ直す必要があると思います。<1019>
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おめおめと日本のクマを絶滅させられてはなりません(再掲)

2018/08/17 12:38
今、テレビは全国の住宅地等に出没するクマの情報をひっきりなしに報じています。


2016年6月20日の毎日放送「あさちゃん」は、神奈川県相模原市の住宅地でクマが出現し人々を驚かせたと報じました。


30年来、そうしたことはなかったそうです。


6月12日の朝日放送「報道ステーション」は、岐阜県飛騨市池が原湿原でクマが出現し、観光客を襲撃したと報じました。


出動した猟友会の人がインタビューに応じていましたが、「こんなところにクマが出現するなんてことはかつてなかった」と首を傾げていました。


それは極めて異例なことだそうです。


同番組は秋田県鹿角市で先月から4人の遺体が見つかり、クマに襲撃されたらしい事件もあわせて報じていましたが、現場近くで射殺されたクマの死体を示した上で、全国でクマの目撃情報が例年に比べて増え続けている事実を報じました。


専門化が言うには、昨秋は一定量のドングリが取れたので、母クマが一斉に子供を生み、そのため神経質になっているとのことです。


それはきっとそうなのでしょう。


しかし、これらの報道から「昨年はドングリが大豊作だったので、全国でクマが爆発的に増殖している」との印象を受けたとしたなら、それはきっと間違いだと申し上げます。


そもそも、クマは警戒心の強い動物で、住宅地には決して近づかなかったものです。


ましてや、人を襲うなどということは、ほとんどありませんでした。


それが、急に人を襲うようになったなら、何らかの訳があるはずです。


当ブログは、「近年クマの猟銃による捕獲が、従来それが行われなかった深山においても大規模に行われるようになったので、クマにとって安全な聖域が消失し、その結果、人里に害意をもって出没するようになった」と推察します。


2016年6月19日の京都新聞はこのような記事を伝えています。

19日午前8時ごろ、高島市高島の願龍寺で、本堂裏のドアガラスに銃弾が貫通したような跡(写真)があるのを寺の総代の男性(62)が見つけ、住職(60)が110番した。

高島署によると、銃弾は寺の北側にあるドアガラス、本堂横の部屋の壁と天井を上に向かって斜めに突き抜け、屋根裏のはりにめり込んだ状態で見つかった。

つぶれており、長さ約一センチだった。

同署は器物損壊の疑いで調べている。

現場は水田や山に囲まれた住宅地だが、周囲は禁猟区ではないという。

発見した男性は「獣害駆除のためにハンターが撃ったのかもしれないが、人家が多い所なのに銃を撃つなんて怖い」と話していた。



この事件を報じたテレビニュースは、周辺で大規模にサル駆除が行われており、弾丸はライフルのそれだと言っていました。


それにしても、今年はサル年だというのに、サルを長年神聖視してきた滋賀県においてこのようなことをなすとは、全く罰当たりと言う他はありません。


そしてこれは、ひとつ間違えば人が死んでいた事件であり、「ちょっとうっかり」の類の事件ではないのです。


察するに、滋賀県の猟友会に野生動物大量駆除の大号令が役所等から下っており、張り切りすぎた会員が無茶をやってしまったということではないでしょうか?


それにしても、クマの凶暴化や猟銃の誤射という客観的な事実が存在するのに、テレビも新聞も、「猟友会が暴走して山を荒らしているのではないか?」というありきたりな疑念に一切言及しないのが気になります。


誰でも思いつくような懸念は、一言言及してそれを緩和するのがその道の人間の常識であるのに、それが一切ないならば「意図的にその話題は避けられている」と考えざるを得ません。


何故そんなことをするのでしょう?


きっと、マスコミには「日本中で野生動物を大規模に駆除していくものの、そのことを一般大衆に悟らせない」というアジェンダ(大目的)が存在するに違いありません。


マスコミはイルミー結社の忠実な下僕であり、当たり前の議論が意図的に避けられている時には、連中の指図があると察して間違いないのです。

では、少し遡って2016年3月5日の京都新聞を見てみましょう。

京都府が絶滅寸前種に指定するツキノワグマの殺処分の在り方をめぐって、自然保護団体と府の間で意見が分かれている。

府が2015年度に許可した殺処分数は西日本で最多の41頭。保護団体の「日本熊守協会」(兵庫県西宮市)は「多すぎる」と批判し、府に改善を求める要望書を提出した。府は、クマの生息数が増えていることや、他の獣害対策とのバランスから「殺処分は適切」と主張している。

クマが人家の周辺に出没したり、果樹に被害を及ぼしたりした場合、都道府県は捕獲や殺処分を許可できる。

同協会によると、15年度の近畿各府県の殺処分数は兵庫県18頭、滋賀県一頭で、その他は0頭。(中略)

一方、府によると、クマの推定生息数は12年時点の500頭から15年に900頭に増え、12年度は515件だった目撃件数も13年度以降は毎年一千件を超えているといい、「人や農作物の安全を考えると、一定の処分はやむを得ない」と主張。わなの大きさの規制についても、「小さくすれば本来の目的であるシカなどの捕獲効率が落ちる」と否定的だ。(後略)



さて、皆さんはゆるキャラ「クマモン」で有名な熊本県に、野生のクマは一頭も存在しないことをご存知でしょうか?


いや、熊本県に限らず、九州全土で野生のクマはとうに絶滅しているのです。


ところが、上の記事は昨年1年度だけで、京都府で何と41頭ものツキノワグマが殺されたことを伝えています。


京都府にまだ41頭も野生のクマが存在したことが驚きですが、これはまさに絶滅を目指した大虐殺が行われていると言って過言ではありません。


それにしても、仏教心篤い日本人は、春日大社の鹿に限らず、野生動物に愛情をもって接してきたはずですが、何故これに誰も怒らないのでしょうか?


これではまるで日本列島に居住する民族が入れ替わったの如きで、なんとも浅ましく酷薄な印象を受けます。


そもそも、何故近年に限って野生動物は人里に出現し、畑を荒らすようになったのでしょう?


そして、その個体数は本当に爆発的に増えているのでしょうか?


そうではないと考えます。


野生動物は決して馬鹿ではありません。長年のうちに人里に出ると殺されてしまうことは学習しています。


であるのに人里に出没するようになったのは、深山が荒らされ安全な聖域がなくなってしまったことと、山における食料の総量が大きく減少してしまったためと考えられます。


ところで、筆者の母校の京都大学総長は愚かにも「鹿カレー」なるものを考案し、京都テレビのCMで「森を守るために鹿カレーを食べよう」と呼びかけていますが、「鹿、即ち森を枯らす害獣」という安易な発想は野蛮で無知な印象を受けます。


もし、山にブナなどのドングリの木が大量に存在するなら、鹿は冬季に樹皮を剥いで枯らしたりはしないでしょう。


野生動物の食物総量は山地において不足しているに違いありません。そして、その原因は、酸性雨だと考えられます。


天気予報はよく、中国本土から大規模に流れてくる高密度の有害な微細物質PM2.5の赤い雲を示していますが、NOXを大量に含むこの汚染された大気は酸性雨を日本全土に降らせます。


その影響で、ドイツのように日本全土で大規模なブナ枯れが問題になっており、それが野生動物人里出没の背景にある根本的な問題と考えられます。


確かに、人間の畑を荒らすことを学習した野生動物は、それが繁殖力の強いシカやイノシシであるなら、一時的にそれらの個体数を大きく増すこともあるでしょう。


しかし、そうなると、人間はそれを上回るスピードで駆除を行いますから、一時の繁栄は結果的に種にプラスに作用せず、動物たちもそのことを知っていると思われます。


そして、繁殖力の弱いクマは、一過的に個体数を増やすことすらないでしょう。


以下の記事は、人間側にクマを殺したい事情があることをそれとなく教えてくれます。

2015年12月10日の京都新聞によると、

北海道は9日までに、道内のヒグマの生息数を科学的データに基づいて初めて推定し、2012年度は1万600頭(平均値)だったと発表した。

従来の調査は狩猟者の聞き取りに基づいたもので、12年度は2200から6500頭と推定していた。

道は、「過去の主観的な印象に基づく推定は過小評価だった」と結論づけた。

道は、雌雄別捕獲数、出産数と出産間隔、生存率、生息密度、痕跡発見率など、これまでのモニタリングや調査で蓄積されたデータを基にコンピューターでシュミレーション。

1990年度から12年度まで23年間の毎年の生息数を推定した。

1万600頭は1990年度の平均値5800頭の約1.8倍で、道は「生息数の減少を受け、90年度から積極的な捕獲をやめたことが原因ではないか。継続して増加傾向にあった可能性が高い」と分析。

ただし、今回の推定頭数は最大と最小の平均値で、プラスマイナス6700頭の誤差があり得るという。



さて、この最後の一節は噴飯ものです。


北海道にヒグマが1万頭いる印象を与える論文を書いておきながら、誤差が7000頭もあるというのです。


ということは、この論文は実際のヒグマ生息数が3000頭であったとしても、成り立つということで、この論文を根拠に「半分の5000頭ぐらいは駆除してもよいだろう」と府の職員が考えたなら、ヒグマにしてはたまったものではありません。


全くこれは、時流に合わせて、権力者が求めることをただ実行したい役人にその行動根拠を与えるだけの茶坊主論文と言え、見るに耐えません。


しかもこれが新聞記事になっているということは、実際北海道のヒグマが乱獲で早晩絶滅してしまったとしても、その責任は、このいい加減な新聞記事に異を唱えなかった読者の責任になるということなのです。


もちろん当ブログは、断固としてこのいい加減な新聞記事に怒ります。


そして、近年の野生動物大虐殺の背景には、いずれ日本中の里山領域を大規模に造成して景気喚起せんとする秘めたる野望があるからと考えます。


それが、山間地に豪邸を建てて住むことを好む外人の思惑で、将来の自然保護団体の警告を憂慮しているのか、それとも大規模に作付けする農業企業の将来の収益性を考慮したものなのか、今の段階ではわかりません。


しかし、野生動物虐殺の意図は明白であり、そのための偽善がこうしてほころびを見せつつある今、読者はその懸念すら口にできない臆病者になってはなりません。


私たちは、その発生時期と規模が予想できていた東日本大震災による大津波が、日本学者たちの連携した悪意で大被害をもたらした5年前の教訓を忘れてはなりません。


そしてもはや、イルミーなりした学者たちの詭弁大合唱によって踊らされる結果、未来に臍を噛まされるようなことがあってはなりません。


忘れてはならないのは、イルミー秘密組織は外人の手先の集まりということです。


今行われている日本人離れした野生動物の大虐殺から目を背けないようにしましょう。


何故なら、その凶暴な悪意の矛先はいずれ、イルミーではない一般の日本人大衆に向けられる性質のものだからです。(hiyoshikei025)
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日本人は鯨をもう一匹も捕りたくない

2018/08/15 14:03
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【OCNブログ人アマがえるブログ20111211記事を転載します(文責・日吉圭)】

馬上行動 山田冬樹の部屋によると、日本政府は「南氷洋で捕鯨を行っているのは、食用としてではなく、鯨の生態、行動形態、食資源の管理可能性等を調査しているため。」「調査捕鯨で捕れた鯨を食用に販売しているのは、調査費用を賄うため」と主張している。

実際の捕鯨は、財団法人日本鯨類研究所という、農水省の天下り団体が、共同船舶という国策企業に委託して行っている(中略)。

共同船舶という会社も、もとは大洋漁業など3社の捕鯨部門を統合した企業だったが、大手水産会社は採算性が悪いため、農水省所管の五つの財団法人に全株を売却してしまっている。

日本鯨類研究所は、05年度に捕鯨頭数を440頭から850頭に拡大、その一方で平均20%の値下げをすることで、売上増を期待したが、鯨肉の販売収入は04年度には71億円、05年度には67億円、06年度には54億円とかえって低落している。

日本鯨類研究所は、これまた農水省の所管の海外漁業協力財団から、01年度から06年度までの間に合計154億円を無利子で借りている。

同研究所はそれでも予算が足りないため、農林水産省から億単位で補助金を受けている。

水産会社が儲からないからと言って撤退した捕鯨を、国が税金を使ってやっているのだ。



さて、我々日本人は和歌山県太地町などが捕鯨の歴史を有することから、日本には捕鯨の伝統があり、鯨料理は日本の食文化の一端であると思わされている。


しかし、太地町などで行われてきた捕鯨は、漁師が命がけで近海の鯨に挑みかかった、今流に言えば「エコ」な漁業であったことをまず念頭に置かねばならない。


鯨漁師の数は限られ、鯨も弱ったものしか相手に出来ないので、捕鯨は日本近海の生態系の維持に役立っていた可能性が大きい。


また、我々は捕鯨について外国人に語るとき、日本は鯨を神聖視してきた国民であることを伝えることを忘れてはならない。


東北、近畿、九州の各地方をはじめ日本各地で、鯨類を「エビス」と呼んでいたことから分かるように、鯨は捕獲の対象であると同時に、信仰の対象でもあった。


えびすとは、鯛と釣竿を持つ姿で知られ漁業の神でもある「恵比寿」のことである。


由来については諸説あるが、現在でも「漁師が、鯨にカツオがつく様子を鯨付きと呼ぶように、魚群の水先案内として鯨類を目印としていて、その魚群を見つけ出す力を神聖視していたため」といわれる。(Wikipedia)


ところが、近代に入り、日本人は捕鯨船という鋼鉄の船を手に入れ鯨を乱獲した。


そして、食糧難を補うために鯨肉に深く親しんだため、それを懐かしむようになった。


だが、鯨を資源として眺める目線は、もはや日本人本来の心から遊離しており、伝統などと呼ぶことは出来ない。


今や日本人はかつての鯨肉に代わって牛肉を重宝している。


時代は変わったのである。


だから、日本人の大多数が思っているように、希少で可愛い野生動物を捕獲して食料にしようとする野蛮は慎むべきで、捕鯨は全面禁止されるべきである。


ところが、差別を創造しそれを利用するイルミーは、捕鯨を材料に西洋人の心にある日本人差別を掻き立て、日本人が苦境に陥ったとしても、手を差し伸べる者が出ないように操作している。


イルミーはかくの如く問題を創造する時に、対立する両陣営に糸を垂らすのが常であるから、西欧の反捕鯨団体シー・シェパードと日本の鯨類研究所双方に、イルミー構成員を入れていることはほぼ疑いない。


日鯨研は9日に米連邦地裁に対して、捕鯨妨害と船団への接近禁止を求めてシー・シェパードを提訴したが、これはいつか訪れる日本人の大危難(恐らくは国家財政破綻とIMF管理)に際してアメリカ市民が真に同情しないように、世論操作のために起こされた行動に違いあるまい。<1597>
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イルミーに捧げる詩(うた)(再掲)

2018/08/14 14:27
あなたはイルミーという地獄を知っているか?


その地獄に親の代から入っていて、当たり前に吸い込まれる者もいるが、多くは誘われて入るものらしい。


今をときめくロックバンドも、美貌の大女優もお仲間だと聞かされて、田舎者はバスに乗り遅れるなと、後先考えずに入ってしまうそうだ。


そして、入った当初は楽しいらしい。人間関係がボロボロになったこんな時代に、イルミーの中だけは暖かい風が吹いているように人は感じるものらしい。


いつも秘密の回線でつながった仲間がいて、自分は皆から好かれていると孤独な奴ほど身に染みて、嬉しくなるものらしい。


けれども、そこは地獄である。


長くイルミーに身を置いて、組織の階段を登り始めて、気がつくだろう。全ては見せかけだってことに。


それもそのはず、イルミーの武器二本柱は偽善と裏切りだ。


口先だけの嘘八百で他人を陥れ、破滅させる。また職場規律を裏切って機密を漏らしつつ、影で赤い舌を出している。


そんな集団に人情など育つはずもなく、誰も彼も道具として利用されているだけだ。



こんな子供でもわかる道理に人は気づかず、また気づいても気づかぬように、自分を訓練するものだ。


そう、イルミーのあなたはゾンビの群れに落ちた哀れな人間なのだ、もしあなたにまだ人間が残っているならば。


仮にありのままの真実があなたの眼に映ったら、震え上がらずにはいられまい。


しかし嘘の世界に馴染んだあなたにとって、何よりも恐ろしいのは仲間外れにされることだ。


誰からだって、ゾンビたちからだ。


虚構世界だと薄々わかっていても、孤独よりはましなのだ。


あなたは抜けようとした者がどんな目に遭うか知っているから、恐怖の縄で縛り上げられており、一生虚構世界の住人で満足するしかない。


そして、このみすぼらしい真実から目を背けるために、極めて傲慢になり、貧しく不遇なものを見下して、受けた恐怖を他人に転嫁しようとする。



我々というオロチに逆らったら、ただでは済まないぞと凄むのだ。


ああ、痩せさらばえたゾンビ疑似体よ、お前はただ迷惑なだけの自己肥大だ。


お前の精神の虚構が、この世界を汚し歪めているのだ。



イルミーの脳は逆転しているから、イルミーでない者が汚点に見えるのだが、脳をくるんと元に戻せば気づくはずだ。


あなたこそが汚点だってことに。


イルミーは要職を独占し、自分たちだけが才能を発揮できると誇るのだが、イルミーの誰一人として才能など有してはいない。


癌はどんなに蔓延っても、臓器を作ることはできない。


イルミーの誇るどれほど高名な学者であってもそうである。


そんなイルミーだけで、社会は作れない。


にもかかわらず、あなたはイルミーでない者を軽蔑し、逆らえば憎み、姑息な手段で陰から破滅させて恥じるところがない。


断言しよう、イルミーの世界にはひとかけらの愛も存在しない。


そんな場所で人は生きられないのだが、イルミーは嘘の世界に没入することで苦痛を回避する。


言い替えれば、イルミーは嘘の監獄に閉じ込められた囚人なのだ。


虚弱なあなたは、敢えて不愉快な真実を見つめる勇気などなく、一生嘘に浸ったまま死んで行く。


この世界の真実を知ることこそ、生きている大きな目的の一つだと言うのに。


つまりイルミーは、頭は惚け目も虚ろなヤク中と同じである。ゾンビな上に薬中毒なのだ。


だが不思議なことに、盲目のあなたは自分たちこそ世の真実に通じた支配者であると嘯く。


仕事柄親分の悪行を知っているので、悦に入っているのだ。


確かにイルミー幹部の悪知恵は大したものかも知れないが、それはあなた自身の知恵ではない。


あなたはと言えば、この世界を変えるどんな小さな力も持たぬ奴隷に過ぎない。何もかも親分の言う通りにしなければならぬ、何一つ自由意思を発揮できない哀れな奴隷なのだ。


それは違うとあなたは怒るだろうか。


仕事は任されており、各イルミーはそれぞれ自由意思を発揮していると。


違う。あなた方は誰でも出来る単純労働を、親分の機嫌を伺いながら、やらされているに過ぎない。


そもそも長年の奴隷稼業が身に染みて、人たる者の自由意思とは何かが、判らなくなっているに違いない。


ここで読者に、ある人がイルミーであるかどうか目安をつける有益な方法を伝授しよう。


頭がお金のことで一杯になっている人がイルミーの可能性があり、金など二の次で人生を楽しむ豊かな尺度を持っている人がイルミーでない。


頭が金のことで一杯の人は、やたら勝負にこだわるからそれと分かる。


イルミーは序列社会だから、構成員は常に自他を比較し、ある時は見下しある時は嫉み、決して満足を知ることがない。


それは、構成員が満足したら残忍で卑劣な仕事をやらなくなるから、常に蓄財の向上心を失わないようデザインされているのだ。


つまりイルミーは、階級を上げるほどに激しく憎み合い、ライバルから見下される惨めさから抜け出そうと切磋琢磨する。


ということは、例え資産数百億の大富豪であっても、その心性は乞食と同じなのである。


そもそも組織から疑念を持たれたくないから、金の使い道は知れており、自分の金というよりは親分の金だ。ならば、積み上げられた金に意味はなく、まるで毒入りと知るお菓子の家に住む子供のようだ。


満足出来ないならば無一文と同じで、ヤカンの水を飲み干しても一向に渇きが治まらない糖尿病患者と変わらない。


つまりイルミーになるということは、誰もが持つ幸福を溜める壺の底に、穴を開ける行為に他ならない。


その穴を塞ぐことは、組織から脱会しない限り不可能だが、およそ望むべくもない。


ということは、すべてのイルミーは不幸のどん底にいるのである。


さて以上のことを踏まえて、イルミーに加入することは、生きながら地獄に墜ちることに等しい。


そんな亡者のような連中が、われらこそ社会のリーダーだと吠えている。


また、自分たちに逆らう者に卑劣な集団ストーカー攻撃を仕掛け、苦しめつつどうだこれが世間だと吐き捨てる。


世間なものか。大口をたたく前に、まず鏡に映る己の姿を眺めて、自分たちが人間の屑でないかどうか自問自答してみるがよい。


集団ストーカー参加義務、つまりターゲットに対する攻撃的つきまといを行うため命じられた場所に駆けつける義務は、いかに高位のイルミーであっても免除されないらしい。


つまり、イルミーになるということはストーカーになるということと同じだ。


この義務から自由になれる年齢はない。すなわち、ストーカー義務は終身義務であり、髪が白くなっても、その時の持病がいかに疼こうが、断ることはできない。


仮に大病をしたとしても、その病気を口実にできるストーカー行為をやらされる。


そして、もしこの忌まわしい義務をさぼったと見なされれば、集団から徐々にいじめの標的にされていく。


ここで、その者がどれほど裕福であろうとも、どれほど社会的地位が高かったとしてもお構い無しだ。


そこには人間性は存在せず、人生の尊厳もない。(hiyoshikei030)
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安倍首相を知らずに貶せるあなたは何を知っているのか?(再掲)

2018/08/13 17:19
【OCNアマがえるブログ20140111記事を転載します(文責・日吉圭)】

2014年1月5日京都新聞天眼・梅原猛によると、

安倍政権が日本経済再生という課題において一定の成果を上げていることは間違いない。

安倍政権発足以来、円安・株高が進み、賃金を上げる企業が増えているのはまことに結構なことであろう。

しかし政治の課題は経済問題に尽きるものではない。

日本の首相は何よりもまず、日本はどのような国家であるべきかという理念を語る必要がある。

また、あえて太平洋戦争を始めた日本についてどのように反省するかという歴史認識が必要であろうが、首相はそのような政治理念についても歴史認識についてもまったく語ろうとしない。

昨年12月の特定秘密保護法成立を機に、国民はようやく安倍首相の政治理念に疑念を抱くようになった。

首相は日本を戦前の体制に戻そうとしているのではないかという国民の疑念が強まっている。

戦中派の私には、テレビに映る安倍首相の姿が、東條内閣で商工大臣を務めた首相の祖父、岸信介氏の姿に重なって見える。

私は日本を社会主義国家にしようとするマルクス主義的政党を厳しく批判してきたが、それは平和憲法の理念にもとづいたものである。

ところが、今や平和憲法そのものが危機にさらされている。

最近まで高い支持率を保っていた安倍首相は、長く首相の座にとどまった中曽根康弘氏、小泉純一郎氏に比すべきかもしれない。

中曽根氏と小泉氏も改憲論者であるが、中曽根氏は日本及び外国の学問や芸術についての深い知識があり、そのうえで日本の国家はどう進むべきかについての認識をはっきりもっていた。

「政治は文化に奉仕するもの」と常に語っていた彼はその言葉通りの政治を行った。

また小泉氏はオペラをはじめとする芸術に直感的な鋭い理解を示し、最近の脱原発論が示すように、絶妙なバランス感覚をもっている。

しかし安倍首相は「美しい国、日本」を掲げるものの、日本の自然や芸術の美に対する深い理解が欠如しているように思われてならない。

その思想は改憲一本やりであり、なりふり構わず日本を戦前の体制に戻そうとする執念をうかがわせる。

科学においても芸術においても、真に創造的なものは自由の下でしか生まれない。

戦後約70年の間、自由に読書し、思索し、著作してきた私が今、人生を終えようとするとき、また雲行きが怪しくなってきたのである。

日本は「いつか来た道」を再びたどろうとしているのではなかろうか。

「この道はいつか来た道 ああそうだよ アカシアの花が咲いている」という唱歌の一節があるが、この歌詞になぞらえるならば、「この道はいつか来た道 ああそうだよ 地獄の花が咲いている」という日がそのうちに訪れるかもしれない。

地獄の花が咲いている道とは、あちこちに屍がゴロゴロ転がっている道であろう。

このような憂慮を抱くのは、必ずしも九十になんなんとする私の老耄ゆえではあるまい。(哲学者)




さて、何度も説いてきたように今や日本の学者の大部分はイルミーに魂を売り渡している。


もっと正確に言うと「イルミーに従いその道具として生きる道だけが学者を称して糊口をしのげる道であり、その理を飲むことを拒絶した者はあらゆる手段を用いて排除されている」
のである。


そうした学者の本質を筆者は世に示し続けてきたが、その典型的な人物はあまりにくだらないので語っても人をしらけさせるにとどまる。


そこで筆者は梅原氏の寄稿を題材に、卑しい学者の本質と彼を反面教師として進化しなければならない日本の未来について語ろうと思う。


ここで多少胸が痛むのは、哲学の分野の巨人である彼の業績を無視できないからであり、彼が一流とは言えないものの、イルミー学者にありがちな心を完全に失った者ではないからである。


だが、そうした「跳ね返りの大きな星」こそ真に人の心を打つ言を吐くことが出来、世の趨勢に多大な影響力を発揮できる者であるので、心を鬼にしたいと思う。


さて前置きはこの辺にして、彼が説かんとするところを見ていこう。


まず文の前半で梅原は、安倍政権は国家ビジョンを有しないと決めつけ、国家ビジョンを有する政治家ならば必ず、中韓に対して謝罪外交を行うと決め付けている。


だが、中韓は日本に対する寄生精神(復讐の念)を民族の結束軸に置く国家であるから、彼は「今後日本人はどんな理不尽も耐え忍んで、中韓にその有する富をすべて差し出せ」と説いているのに等しい。


また彼は特定秘密保護法の本質を、戦前・戦中の無慈悲な日本憲兵の姿に当然に重ね合わせているが、日本人の富を保全するために当然に必要とされる法案の本質を隠しており、読者の思考停止を招き拒絶反応を誘発することを目指して筆を走らせていることは明らかである。


また彼は、現安倍政権の有する政治的影響力の大きさをかつての中曽根・小泉政権に比すべきものだと称える一方で、中曽根氏・小泉氏には将来の日本の国家ビジョンがあったが、安倍氏にはそれがないと決め付けている。


だが彼はそのビジョンの内容については語らず、中曽根氏は話し合った時にその学識が評価できたし、小泉氏には芸術的センスが認められたと言う。


では彼は、安倍氏とも胸襟を開いて語り合う機会を持ったことがあるのだろうか?


どうもいい加減で論理的にチンプンカンプンであり、「俺様のお墨付きを安倍氏にだけは与えないぞ」と猛っているが如きである。


そもそも、小泉氏の芸術的センスと国家ビジョンにどのような関係があるというのか?


筆者には彼の知ったかぶりの根拠は、中曽根・小泉両氏がイルミー構成員である事実を彼が知っているだけだと思われる。


つまり梅原は、「日本の戦後は対イルミー従属路線で進んできて、うまくいっている。けれどもイルミー陣営から正式な承認を得ていない安倍氏に日本の舵取りを任せると、したたかなイルミー大国である米英からまた操作された上で戦争を仕掛けられて、多くの人が死ぬぞ」と言いたいのだろう。


だが梅原の若かりし頃と今では、時代も状況もまったく異なる。


イルミーのシナリオでは、今後の日本にその富を増す道は許されておらず、その民族性を失いつつ中韓の養分となって消えていく道しか用意されていないのである。


彼ほどの賢者ならその道理と将来の日本人の苦悩が見えていないはずがないのであるが、それを知りつつ従属路線を説く彼の悪意は拭い難いものがある。


「日本人は滅ぼうとも、イルミー成りした者だけは生き残る」とでも言いたいのか?


彼とて不本意ながら周囲の圧力で老耄の筆をとったのかも知れないが、こんな男の過去の処世の方便に関わって、日本国の進路を誤ることがあってはならない。<1910>
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国際性とは何か?(再掲)

2018/08/12 16:13
【OCNブログ人アマがえるブログ 20100928 記事を推敲したものを転載します】


よく「国際性を身につけよう」という謳い文句を耳にしますが、その言葉が意味するところは何でしょう?


「国際性」とは、「外国人と会話が出来る」ということでしょうか?


いや、例え会話が出来ても、いきなり軽蔑されて見下されるようでは「国際性」を身につけているとは言えません。


では、「国際性」とは「外国人に見下されず気に入られる」ということでしょうか?


つまり、彼らの心を打つことを何一つ出来なくとも、ただ犬のように媚び諂い、利害に敏感な彼らが状況を歓迎して首を縦に振れば、それが「国際性を身につけた」ということになるのでしょうか?


そうではないでしょう。


筆者が思うところの「国際性」とは、「世界というものが成り立っている基本原理を弁え、その上で自分を侮って近づいてくる外国人にはしかるべき権利を主張して退け、また利害を同じくする外国人とはいつでも手を握って付き合える」ということです。


つまり、「国際性」とは、「平明な目で外国人を見て、怒るべき者には怒り、共に笑える者とは笑う」ということなのです。


ところで、日本人は、集団内のどの人物とも言語が通用する均質な社会で長く生活してきたので、外国語、特に英語で喋りかけられると驚き、怖気づいてしまいます。


その結果、外国人をまるで異星人のように大仰に捉えて萎縮してしまい、もし同じ日本人だったらすぐに拒絶反応を示すであろうつまらない相手とも、へらへらと自分を殺して付き合ってしまう傾向があります。


また、日本人以上に志を同じくする外国人を、過剰に警戒し、心に垣根を作って遠ざけてしまいます。


このとんちんかんな対応を、「国際性がない」と言うのであり、平明に付き合えることを、「国際性を備えている」と言うのです。


また、外国に行くと、おかしな発音の英語を話す日本人を多く見かけます。


筆者は同じ日本人ですから、彼らの話すおかしな英語のイントネーションが意味するところをよく理解出来ます。


つまり、それらの者たちの英語は、外国人に合わせて仕上げられた英語ではなく、日本人に合わせて仕上げられた英語なのです。


どういうことかと言うと、日本人社会の中で「自分は英語を喋れて外人たちと付き合える身分だぞ」と自惚れ、それを誇る気分が発音に反映してしまった英語なのです。


英語のことを良く知らない日本人ならば、そのような過剰に雄弁な英語に恐れ入ってしまうでしょう。


けれども、本物の外国人がそのような妙なニュアンスを備えた間違いだらけの英語に接すると、例外なく強い軽蔑を示します。


さて、それらの日本人は支配者意識が強い者たちであるという共通した特徴があります。


そして、そのような日本人は外国人を「日本国内で有利な地位を勝ち取るために利用する道具」と見做しているのが常です。


早い話、「同じ人間ではないエイリアン」と思っているのかも知れません。


彼らの関心は、あくまでも己の日本国内における序列であり、異国は視野に入っていないのです。


だからこそ、彼らはエイリアンからどれほど見下されても平気なのであり、犬のように諂っても恥を覚えないのです。


一方、外国人たちはそのような者たちを表面的には歓迎して利用しますが、本音では吐き気を催す程に嫌っており、「隙あらば殺してやりたい」とすら思っています。


そして、その憎しみが日本民族全体に対する差別意識を駆り立て、日本国に対する過剰な略奪行為となって発露されてしまうのです。


残念なのは、かくの如き支配者意識の強い日本人たちが、日本人集団をまるで無尽蔵の資源のように看做している事実です。


ならばこそ彼らは「外国人の過剰な略奪を受け入れたとしても、尚かつ自分たちは安全であり、いつまでも裕福であり得る」と考えているのであり、現実をシビアに見つめる視点を欠いている点で質が悪いと言えます。<1163>
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敢えて法外な推測を語る(再掲)

2018/08/11 13:56
【OCNブログ人アマがえるブログ20110315記事を転載します(文責・日吉圭)】

3月11日の京都新聞夕刊一面を飾った記事は、東日本大震災関連ではなく、菅直人首相が政治資金規正法に違反して在日韓国人から献金を受け取っていたことに関する内容だった。


本来ならば前原大臣が同じ問題で辞任に追い込まれたように、これは菅首相に引導を渡すに十分な事件であったはずだ。


しかし、菅首相にとって神風の如き大地震が起き、それから4日間の朝夕刊記事は地震の被害報告と福島第一原発の放射能漏れ事件に埋め尽くされ、首相の不正献金問題はもはや忘れられたかの感がある。


何故これほどタイミングがよいのだろう?


菅首相がイルミーであることはほぼ疑いないと思われるが、例えイルミーが科学者を掌握していると雖も、まさか大地震を人為的に起こすことは出来ないに違いない。


筆者はこの問題を説明しうる仮説を心の中で暖め続けているが、それを単なる憶測で終わらせずにここに述べる必要を強く感じるので、推測であることを承知した上で聞いてもらいたい。


まず、昨夜長野県で起きた震度3の地震を気象庁が緊急速報で事前に予知出来たように、大地震の発生をその規模も併せて正確に予知するシステムは既に完成されていると考える。


恐らくイルミーはこの知識を独占し、自分たちの系列に属する学者にのみそれを教え、彼らを気象庁の顧問や地震研究機関のトップに据えて、大地震を自分たちの革命に利用しようと考えたのだろう。


そこで、筆者の心象風景においては、大地震が発生した以上、イルミーたちの革命計画は既に実行に移されたことになる。


あまりにも不自然な津波規模の過小予測と、それが引き起こした大規模な人的被害は、彼らが大衆の怒りのエネルギーを欲したことの反映だろう。


福島第一原発の大事故は、発生当初より原子力関連学者たちから人災だと強く囁かれていたが、筆者の心象風景においてはこれはイルミーの革命計画の根幹をなす事件であると看做される。


思うに、このままでは福島第一原発がメルトダウンを起こす可能性は高く、それはもしそうならなければ革命の梃子となる程の大事件にならないからだと逆説的に説明される。


よって、我々がまず為すべきことは、事態が悪化するようにイルミーが現地スタッフを誘導し続けている流れを絶つことである。


事ここに至った以上、東電の隠蔽的体質はもはや容認されない。


これは一私企業の問題ではなく、国民全体の健康に関わる重大事件であるからだ。


そこで、イルミーも予想し得ないような大鉈を振るって人事の刷新を行わない限り、悪循環を止めることは困難だろう。


政府は東電と事故対策の合同本部を立ち上げたそうだが、枝野官房長官の影響力を排除する必要を強く感じる筆者にとってそれは朗報ではなかった。


とにかく、責任の所在をガラス張りにしてイルミーの影響力を排除することが先決である。


菅首相の不正献金問題が追及出来ない時に公にされたのは、そのことはもう議論済みと後で言えるように、先を見据えてアク抜きをしたのだろう。


イルミーはその生粋の構成員が日本国の操舵輪を握ることが出来たこの僥倖を、革命完了まで決して手放したりするまい。


彼らは菅首相に敵対する勢力には手段を選ばず攻撃を仕掛けてくると思われるので、反抗は秘密裏に進めねばならない。


そして、連中はどこかで大衆にパニックを引き起こす仕上げをしてくると思われるが、それにはツイッターなどの連鎖反応を引き起こすネットワークサービスが活用されると予想する。(後略)<1326>
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